泥棒 第7章〜第9章
from 『泥棒!: アナキズムと哲学』
第七章  アナルケオロジー  ——ミシェル・フーコー、最後の統治 ここまでで一番おもろい
p202 権力はそれ固有のものとしては存在せず、「自己との関係」をもたない。権力には欲動もなければ原理もなく、つまりは「郵便的」でさえないのである。
その結果アルケーの此方にも彼方にも、ましてや彼方の彼方にも、アナーキーの定義を求めることはできない。フーコーは、これらとは別のところにアナーキーを位置づけている。そこにおいてアナーキーは抵抗するだろう⋯⋯ひょっとすると、アナーキーは同時にアナキズムにも抵抗するのかもしれない。
フーコーはアナーキーとアナキズムを区別していないため、どのような文脈でアナキズムを否定しているか分かりづらい。
権力を全面的にネガティブなものとする態度、権力に抑圧された人間本性を復活させることで社会がうまくいくんだ!みたいな伝統的アナキズムに関しては否定。
かといってアナーキー、アナキズムが攻撃されまくっていることには疑問。アナキズムを再考する必要があるのでは!→アナルケオロジー
アナルケオロジー
p205 アナルケオロジー「いかなる権力も自明ではなく、何であれ権力というものは確実で不可避なものではない」と考える批判的態度のことであり、創設者の言葉も目的論もなしに、ヒエラルキーの逆説的な形式をおこなうものである。
これによって従来のアナキズムから目的論主義的な部分を切り離し、「新たな実践理論」に向けたことで、「ポスト・アナキスト」の代表的な哲学者になった。
トッド・メイ、ソール・ニューマンも評価。
フーコーのアナキズムの際立った特徴であり、互いに切り離せない抵抗と変形
抵抗
権力関係の背後には「暴力の核」などはなく、権力の起源とは権力への抵抗であり、それもまた権力である。
政治以前の状態は存在しない。ホッブズの自然状態とは、国家政策が「他の手段によって継続された戦争」であり、そうでしかないと決定づける、社会戦争である。
政治の起源に相当するのは国家―統治的なアルケーではなく、抵抗である。
これによって、国家や統治によって作られた制度を政治的制度とする従来の型にはまった理論に対して「アゴニズム(闘争性)」、「同時的な相互間の扇動・闘争関係」の優位性を肯定。
p209 そのためアゴニズムからはじめることは、「権力のさまざまな型に対する抵抗の諸形態を出発点とすること」に等しい。「あるいは権力関係を明らかにし、それがどこに位置づけられているのかを見極め、権力関係が適用されるポイントやそれが用いる方法を見出すことを可能にする科学的触媒として、この抵抗を利用することである。権力をその内的合理性の見地から分析するということよりもむしろ、戦略上の対立をとおして権力関係を分析することが重要なのだ」。
抵抗の変形可能性と「権力の非―必然性」を、そして権力の非―必然性と「[政治的な]知そのもの知解可能性の原理」を同一のものとみなす。
変形
権力関係、思考、実践、軌跡、個人的な経験は変形可能であるということではなく、変形によってのみ存在し、存在しうる。
p211 私の問題は、おおよそ継起として考えられがちな抽象的で一般的で単調な「変化」の形式を、さまざまなタイプの変形の分析に置き換えることである。[⋯]要するに、(一般形式、抽象的要素、第一原因にして普遍的結果、同一的なものと新たなものの混乱した混在としての)生成のテーマに代えて、諸々の変形とそれらの特性の分析をおこなうことなのだ。
権力関係の変形可能性と諸々の変形を問うこと、抵抗のさまざまな様式の変形可能性と諸々の変形を問うことであり、フーコー自身の変形可能性と諸々の変形を問うことである。
p212 経験に対する関係は、書物のなかで、変形や変容を可能にしなければならないのだが、それはたんに私の変形や変容なのではなく、他者にとっても一定の価値をもち、他者にもアクセス可能な性格を備え、他者によっても一定の価値をもち、他者にもアクセス可能な性格を備え、他者によってもそれが経験されうるようなものでなければならない。[経験とは]最終的にはある集団的実践にいくらか結びつくものでなければならないのだ[⋯]。(ミシェル・フーコーとの対話『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』p200)
読者も変形の可塑性に巻き込まれる。
晩年のフーコー
変形していくフーコーの最後のセミネールにおけるラディカル・アナキズム
p215 フーコーは、究極の爆発が生じる最後の瞬間まで、統治される必要性を放棄しえなかった。問題なのは、このような統治の爆発がなおも統治概念の背後に隠されていることだ。
フーコーにおける真のアナキズム的な爆発は、ある意味、彼自身のためにも秘密裏に生じるのだが、そうである以上、それは思考されるべきものとしてそっくりそのまま残されているのである。
統治の問題
第一段階:統治を政治的主権の行使に捧げられた「国家システムにおける法の執行や行政にかんする最高決定機関」。
第二段階:「統治」→「統治性」これは厳密な意味での統治ではなく、「統治の問題」を指している。
「国家の統治化」が16世紀以降法モデルに取って代わっていたという事実と、その統治化そのものに対する抵抗も同時に表す。
「国家の統治化」:単に人々に法を強制するのではなく、生活水準や寿命、衛生、健康等に関する「諸々の人工集団の境遇」を改善するために、多種多様な「固有の目的」に応じるものとなっている。
抵抗
法への服従に対しては内戦が最も一般的な抵抗の形。
従属=主体化は脱従属の条件でもあるが、統治の技法でもある。
p218 現代における統治の技法は「個人を類別する日常生活に直接働きかけ、各々の個性によって個人を指し示し、個人とアイデンティティを結びつけ、自分にも他人からも認められなければならない真理の法を個々人に課している」。二重の意味で個人は従属され、服従されるのだ。
そのため抵抗は「横断的闘争」(男性から女性に、親から子に、精神医学から精神疾患者に、医学から人口に、行政から人々の生き方に向けられた権力への抵抗といった形態)を取る。
特定の国に限定されず、解放、革命、階級闘争の終結の約束に導かれていないかもしれないが、「アナーキー」である。
批判は脱従属=主体化である。
が、その性格が故に、自己の論理、統治の論理を尊重してしまう。すぐに従属の回帰。
第三段階:「統治性」→「真理による人間たちの統治」の問題に変形。自己の統治と他者の統治という2つの方向に展開していく。
統治概念の余剰を明らかにする。
パレーシア「自己との労使協調」
p221 「パレーシアとは、真理の言表においてみずからを自己自身に結びつけ、またみずからを自由に自分自身に結びつける方法なのだ」
『主体の解釈学』の『アルキビアデス』読解
演奏家の魂の比喩。演奏家は楽器と相互作用のうちに置かれている。楽器の魂はテクネーの主体であり、ここで楽器、身体を「用いる」ことは対象の隷属ではない。
p222 使用とは「ある態度」のことであり、みずからが用いるものを支配するのではなく、それに「身を委ねること」、つまりは道具に身を委ねることなのだ。そうすることで、ある意味では命令の審級としての自己を放棄する。
p225 真理を政治的に用いることで、統治の論理を廃絶する可能性をほのめかした直後に、それを閉ざしてしまったと言わざるを得ない。自己と自己、統治者としての自己と被統治者としての自己の「自由な労使協調」という考えは、ただちにその極端な脆さを露呈する。それとは反対の言説によって、すぐにも台無しにされてしまうのだ。
パレーシアの不可能性
ギリシアにおける政治はポリテイア(政治体制や、国民の地位、国民の権利、国民が何らかの決定をおこなったり首長を選んだりする際の方法といったものを規定する枠組み)だけなくデュナステイア(力や権力の行使)も表す。
デュナステイアは能力が必要であり、その能力は平等でない。能力の前で平等(イセゴリア)でなくても、法の前で平等であること(イソノミア)が可能になる。
そのためパレーシアは、ポリテイアによって規定され保証されるが、政治家による真理の語りは修辞学的巧みさを持つ特定の能力が必要。
p228 「民主制をなくして真なる言説は存在しないが、真なる言説は民主制のうちに諸々の差異をもたらす。真なる言説なくして民主制は存在しないが、民主制は真なる言説の存在そのものを脅かす」
バレーシアが真に開放的であるために、「ライフスタイル・アナキズム」を推奨。
ネグリマイケル・ハートから批判。
ドゥルーズから見たフーコー
後期フーコーの離脱の擁護。
離脱は「他律的な」主体から「自己構成的な」主体への移行に関わっている。この移行に断絶はない。
ネオリベ的な個人主義ではない!
内在は同一的なものへの固執ではなく、同じものが同じであるのはむしろそれが自らと異なっている場合だけであることを明らかにする。
フーコーにおいても、自己を配慮する主体はこれまでの主体と決別するわけではない。
〈異なるもの〉の反復。
フーコーの作品は襞=内在として、フーコーの主体は自己差異化を行って絶えず自らを重層化していく方法。
権力と知は表裏一体であるとフーコーは述べるが、ドゥルーズは内在=襞として読む。
「内在因」の継続的な発展
p231「内在因とは、その結果において現実化され、その結果において統合され、その結果において差異化されるものである。あるいはむしろ、その結果が原因を現実化し、統合し、差異化するようなものである。よって原因と結果のあいだには、相互的前提が存在する」。
最後のセミネールで内在因によって現実化された結果とは?→政治的意義をひとつも失うことなく、「自己の統治」となった統治概念にほかならない。
スピノザとフーコー
スピノザの能産的自然(実体と原因)と所産的自然(様態と結果)/フーコーの構成する権力と構成される権力の関係が似ていると指摘
ドゥルーズが襞に見る自己触発は、ドゥルーズの思想の核になっており、神においてさえも生じる自己触発は、あらゆる存在の法則となる。力がそれ自体へと折り返されることは、ヒエラルキーが存在しないことを表現し、アナキズム的な方向性を決定づける。
p233 内在とはまさに存在論におけるアナキズム的な反体制者なのだ。
フーコー・マラブーのドゥルーズ批判
内在とアナーキーの一致では満足できない。
自己による自己の触発は、自分の支配することになってしまう。
p253 自由人とは、他人に命令するために、みずからを支配する術を心得ていなければらならない者のことである。
これここ最近の自分の問題とリンクしすぎる批判だ
能動性と受動性という命令と服従からは切り離せない対概念を導入せざるを得ない。
これによってフーコーの真のアナキズム的次元を、つまりは〈統治されざるもの〉の肯定を見逃す。
政治と情動のつながりを主張するドゥルーズの考えを問い直す。
情動に関する理論は自己触発の思想に根ざすため、政治思想は「革命的」であったとしても統治の論理のうちにある。
フーコーのプラトン『ラケス』読解からキュニコス派へ
キュニコス派とアナキズムの近縁性
生の形式と自己触発の決定的な分離。
シュールマンの後期フーコー評
p243 「内側に向けられた反省は、同じだけ外側に向けられた攻撃となって掃射される」
この点でシュールマンはフーコーのアナキズムを批判
キュニコス派の生――ビオス・キュニコス――
慎みも羞恥心も人間的な側面もない。みずからに触れはするものの、手淫という形で自己をさらけ出し、自己触発を冒涜し、無関心に置き換える。
p244 キュニコス派の生が犬の生であるのは、それが犬の生と同じく、無関心であるからだ。起こりうるすべてに無関心なその生は、何にもつなぎ止められはしない。
ホメオスタシスや自己触発を欠いた生は存在しないが、鏡像的な接触(反省)を含意するものではない。
硬貨としての貨幣
キュニコス派の標語「何時の貨幣を変質させよ」⋯「貨幣の価値を変えること、それは[⋯]しきたり、規則、法であるところのものに対して、ある種の態度を取ることなのだ」。
哲学において硬貨の比喩は、真理の喪失とそれに次ぐ再生。
長く流通したことによって真理がすり減り肖像がぼやけてしまうこと、それに付随する再発行する。
フーコー的には硬貨の変質は肖像の変更の問題。
p246 この場合、硬貨の金属はそのままに、肖像だけが変わるのである。金属とは「真の価値」の肖像であり、「真の生を巡る諸原理」(aléthés bios)全体の象徴である。この考えをプラトンと共有するキュニコス派は、「それが受け取ってきた伝統的な意味に最も近いところで、それに手直しを加え」ようとしているのだ。「この観点からいえば、キュニコス派の人々は[⋯]貨幣の素材そのものを変えるわけではない。」しかし、肖像はとうに魂ではないのである。硬貨にはもはや精神的な刻印がなされていない。諸原理はその操舵手の検印を失っているのだ。それ以降、肖像の変更は「これらの原理を極限まで押し進め」、それが何の意味ももたなくなる地点にまで到達しようとする。「貨幣に手直しを加え、肖像をかえ[るのは]、真の生というテーマをいわば歪曲させること」なのである。
〈統治されざるもの〉とは、動物のように支配されうるだけで、決して統治されないもの。
犬は躾によって従うが、〈統治されざるもの〉のままである。
ディオゲネスも支配や殺害の危機にさらされていたが、彼を統治することはできない。統治にとっての他者。生それ自体が秩序に対して異質。
p247 フーコーの主体は、自己自身と同一であるどころか分裂し、魂の君主的な統治と、統治されざる魂のアナーキーな組織化とのあいだで引き裂かれている。最終的に、反省する嫌になった主体は政治的舞台から降り、統治をやめる。ところがフーコーは、この決別を「統治」ないしは自己の統治と呼びつづける。以上から、『真理の勇気』は隠れたアナキストの遺言として読まれるべきものなのである。
キュニコス派のアナキズムは、現代の活動家が「予示的行動」と呼ぶ生による証明をあらかじめ示す。
今ここにおける生の様式をとおしてこそ、生き方の変形をとおしてこそ、いかなる統治も必要とせずに物事を変えられるということ。
実験的な行動様式であり、諸原理に依拠せず、手段と目的の境界を撹乱し、現在に、変形可能性に焦点を絞る。
もう一つの世界ではなく、別の世界、別の生を目指す。
ジュディス・バトラー「フーコーはラディカルなアナーキーの可能性を引き出そうとしているのではなく、いかにして根本的に統治し得なくなるかを知ることが問題なのではないと明確に主張している」
第八章  瀆神するアナーキー  ——ジョルジョ・アガンベンのゾーン
ドゥルーズのフーコーの内在的読解の引き継ぎ。
自己の統治や自己触発という形であっても統治概念には収まりきらない存在論的決定を内在に見て取る。
瀆神とアナーキー
すべてのアナキズムには瀆神の性質がある。
伝統的なアナキズムは瀆神から真に政治的な意味を取り出すことに失敗し、例外化のメカニズムを狙って攻撃できなかった。
そのため古典的なアナキズムと真のアナキズムを区別する必要があると述べる。
古典的なアナキズムは原因ではなく結果を攻撃していた。
p262 アナキズムやマルクス主義による国家批判の不十分さは、[⋯]arcanum imperii[命令の奥義]を正当化するために引き合いに出されてきたシミュラークルやイデオロギー以外には何の内実もないかのように、この奥義に対する等閑視を決め込むのが少々早すぎた点にある。『ホモ・サケル』
聖なるものの両義性という過剰なシニフィアン的体制批判。
瀆神と侵犯を分離する還元し得ない差異を指摘することで、この根本的な問いにこたえる。
これまでのアナキズムは瀆神を侵犯のように理解してきた。(汚聖、侵害、聖像破壊)
侵犯は象徴体系に組み込まれているため常に聖なるものへの再構成につながる。フーコーのバタイユ論「侵犯への序言」アガンベンのフーコー批判はバタイユに魅せられた点。
侵犯は常に資本主義を利する。これはわかる。バタイユと加速主義とのつながりもわかりやすい。
だからバタイユとは手を切って、権力に内在するアナーキーを不活性化する真のアナキズムをやる。
聖なるものとは切り離されたもので、分離(例外化)のメカニズムに基づいていると主張する。
分離のメカニズムは本来政治的な行為である。
アリストテレスにおいてはオイコスとポリスの分離、家庭における剥き出しの生(ゾーエー)と政治における資格づけられた生(ビオス)の分離。
p259 「西洋政治における政治の本来の場は、生に対する操作、あるいは生の排除それ自体によって生を分割し意のままにする操作、すなわち生の排除によって生をシステムのうちに組み込む操作のようなものだと私には思われた」
聖なるものは不可侵で禁じられたものという一般論があるが、ギリシアでもローマでも生はこのような意味での聖なるものではなかった。
ゾーエーとビオスの対立は西洋の政治の起源にとって決定的(アルケー・パラダイム?)であったが、生の特権や聖なるものは含まれていない
生が聖なるものであるのは、それが主権的な例外に該当する限りにおいてであり、神聖であるから分離されるのではなく、分離されていることで神聖なものとなる。(宗教的な分離と政治的な分離を混同してしまっている。)
政治的な聖なるものの判例:ホモ・サケル
瀆神は聖なるものの政治的な起源を明らかにすることでその輝きを消し去ろうとしていた。
装置
君臨と統治の差異。
p269 統治性がもはや上から法をおしつけるのではなく、明示的かつ拡散的な規則や規範をいたるところで増殖させるからこそ、統治は君臨と異なっている。
この差異が歴史的なものではなく構造的なものを示すことがアナーキーをアルケー・パラダイムの中心に据えていることを証明しようとする。
装置は中央集権的な統一性を欠いた集合として現れる。
統治なしに君臨することとは、命令なしにはじめることであり、すべての装置はこの分離を当てにしていて、還元不可能なアナーキーな分裂として定義している。
p272 かくしてアルケー・パラダイムは両極端な機械として現れる。それは例外化のメカニズムを通じて断定の存在論と命題の語用論を強制的に連結する装置である。
権力はいつ現動化(権力の主人化)されるのか。
キリスト教における神の分裂
存在は1者であるが、行動としては三位一体という戦略。
p277 「権力――人間の権力にせよ神の権力にせよ、すべての権力――がふたつの極をともに保持しているのでなければならず、権力は君臨であると同時に統治であり、超越的規範であるのと同時に、内的秩序でなければならない。」
栄光
p282 栄光によって本来の意味で明るみに出された権力の中心をなす奥義とは、存在が根本的に行動することができないという事実である。そのような無為こそが「西洋の政治的実体であり、あらゆる権力の栄えある糧」なのだ。
こうしてアガンベンは、権力がなぜ「儀礼的喝采や讃美歌を受けたり、ごてごてした王冠やティアラを被ったり、耐えがたいしきたりや変えられない慣習に従ったりする必要があるのか――要するに、権力とは本質的に有為性であり、オイコノミアであるにもかかわらず、なぜ栄光のうちに厳かに動かずにいることを必要とするのか」という、みずから立てた問いに答えを出す。権力が栄光を「必要とする」のであれば、それは荘厳さや豪華さのうちにある補完物を見出すためではなく、反対に、最初に権力を空洞化した亀裂を「三位一体の教説がけっして完全には解決することのできなかった神学とエコノミーのこの分裂」をいかなる補完物によっても繕うことはできないという事実を、荘厳さや豪華さでもって祝福するためなのだ。有為性の神秘とは、存在が無為であることによって統治が作動するということである。
権力の象徴
象徴は権力やヒエラルキーを象徴するのではなく、それらを遂行し、それらを構成する。
キリスト教の犠牲
キリスト教は歴史のなかで比類のない資格をもつ第一の祭司、大祭司であるキリストは、自らが供物であることによって、排除による包摂が実現できている。
これは存在論的な成就である。
p288 「キリストの受難と人類の贖罪という普遍的な歴史における決定的な出来事が、なぜ裁判というかたちをとらなければならなかったか」とアガンベンは問う。
キリストは裁判にはかけられているが、裁き(判決)はない。
p289 裁きがなければ処刑も法に適っていはいない。このようにしてイエスは、殺害されはしたものの、犠牲には他ならなかったのである。より正確にいえば、イエスは殺されることに同意したうえでみずからを犠牲に捧げたのだ。厳密には法的な次元を欠いたその犠牲によって、イエスはホモ・サケルとなるのである。
君主であることとホモ・サケルであることを両立させた。至高の権力と剥き出しの生。
ここで示された亀裂に入り込んで不活性化させる方法。
存在と実践の間、フーコーの「使用」
使用が配慮と命令に解消されてしまっていることで「自己への配慮」が自己統治になってしまった。
アガンベンの内在
ギリシャ語の使用(chrestai)は能動でも受動でもない中動態である。
ドゥルーズにおいて能動/受動を基礎とした自己触発だった。
『身体の使用』でスピノザと内在因の問題系が復活。
内在因:動作主と受け手が合致する行動
動作主と受け手が一つになることで、能動/受動の関係は不活性になる。
p294 このように理解された内在は、「何らかのもの――権力、機能、人間の作用――を単純に破壊するのではなく、そのなかで現動化されずにとどまっている潜在的な可能性を解き放ち、その可能性の異なる使用を可能にすることで、それらを不活性化し無効化することのできる能力」と紐づけられている。これこそが、脱構成的潜在力としてのアナーキーと侵犯としてのアナーキーの差異をしるしづけるものだ。
アガンベンは自由と侵犯を結びつけて考える。
p295 結局のところ、限界づけが不可避なかたちでなされる批判を、ありうべき乗り越えというかたちでの実践的な批判に変形することが問われているのだ。
アガンベンの侵犯、バタイユ批判
侵犯は主体性という伝統的な構造を存在させてしまう。
主権者を死に至らしめることを至高性と呼んで、アナキズム的な主権=至高性という逆説を思考する道を開いた点は評価。
聖なるものの両義性に依拠して犠牲、供儀に魅了された思想は現代的には有用ではない。
ジャン=リュック・ナンシーの議論を受けて思考を進める。
p298 侵犯へのバタイユ的な見方に対する批判が狙いを定めているのは、誤解された聖なるものにおける真の問題、すなわち統治の論理の逆説的な神聖化という問題である。くりかえしになるが、あらゆる侵犯は命令と服従の分割に避けがたく関係づけられている距離、分離、「自己の外」を維持してしまうのだ。
こうしたことから「到来する哲学の問題とは、有為性と命令の彼方で存在論を思考することだ」とアガンベンは断言するのである。
ホモ・サケル(脱神聖化)を称揚していて、政治を脱政治化しようとしているが、マラブーはそれができるのか疑問。
アナキズムにおいて、供儀や侵犯、バタイユとの完全な決別はむずかしい?
ゾーン
侵犯なきアナキズムを思考するといくつかの矛盾が生まれるが、それをゾーンと言う概念の議論でなかったことにしてしまう。
ゾーンは起源であると同時に終焉でもある。
p304 まずもってゾーンが起源であるのは「聖なるものと俗なるもの、宗教的なものと法的なものに先立つ場」だからである。そしてゾーンが終焉であるのは、結局それが不活性化の空間として、「起源としてのアルケーと命令としてのアルケーの双方がその非関係において露呈され、中和される」空間として現れるからである。
p305 あらゆる対立は思考の牢獄を形成する捕獲操作の結果である。対立項同士は「締め出しの関係によって分離されるとともに、結びついたものとして維持される」が、この牢獄がそもそものはじまりから大きく開かれた空虚である限り最終的には崩壊する。対立する諸項が自由にゾーンへと回帰することで、それらは「互いを廃棄しあい、新たな関係に入るのだ」。
二項対立として分離したものの対立でなく、二極性。分割不能な場の勾配。
シニフィアンの過剰に対抗するために、定義できない。
議論の論理の粗雑さに対しての応答がゾーンという言葉に依拠するものしかなくなってしまう。
これはゾーンの神聖化であり、ゾーンを聖なるものとしてしまっている。
まとめ
脱神聖化の運動は乱雑な汚聖に陥らないために現代においても根本的に重要。
アガンベンは今日のアナキズムに見られる瀆神的なポテンシャルを提示する仕事に唯一真剣に立ち向かった。
瀆神のポテンシャルなしにアナーキーは存在しないが、神の象徴的殺害なしで済まそうとするのは、逆説的に神聖化を行うことになってしまうのではないか。
第九章 上演されるアナーキー  ——証言者なきジャック・ランシエール
平等性、民主主義のラディカルさ(アテネのクレイステネス)はアナーキーと近い。
平等性は命令する/される立場が交換可能であることにとどまらず、理論上統治するためにはいかなる特別な資格も必要ではないということ。
議会制民主主義のうちの原理的な民主主義=アナーキー。
p315 私が提起したのは、民主主義というシニフィアンはアナーキーであるという定義だった。それは本来の意味でのアナーキー、つまり権力を行使する権限を与えられたり正当化されたりする力は存在しないということだ。結局のところ、民主主義とはアナーキーというシニフィアンを想起することにほかならないのである。それに私はこれまで、アナキズムの伝統や革命的サンディカリズムについて多くの仕事をしてきた。共産主義の理念が意味をもつのは、それが誰でもよい者による権力という理念である場合だ――そうであれば、それはアナキズム的なものなのである。
しかし自らをアナキストと名乗らない。
革命的アナキズムへの批判が一つの応答?
ブラック・ブロックに苦言を呈している。
破壊的な活動が有名だが、常に破壊を目的としているわけではない。